
きょうのタイトルは、中嶋寛さんのブログから借用している。
あまり説明は要らないだろうが、今回は「参加することに異議」が充分にあるのが健康な判断だと思う。オリンピックの精神は「健康な人類の美しさ」を讃えることだと思うが、押し寄せるコロナウイルスに怯えながらの開催に、何の意味があるのだろう。本来は昨年のうちに開催の予定だったものを、コロナ禍をかわす趣旨で1年間の延期として今になった。ところが一年待ったことで事態が改善したかというと、そんな実感はない。統計資料の取り方によっては、そんな見方も出来るようだが、天下晴れてという雰囲気でないのは、家人の毎日の関心が、テレビで流れるコロナ感染情報に向けられているのを見ていてもわかる。
オリンピックに向けて鍛錬を重ねてきたアスリートたちとか、ボランティアを志していた人たちの願望もあるだろうが、最近は、「困難に直面したときの日本人の底力」とかで、戦時中の経験までが飛び出してきたのには驚いた。大義に殉じる特攻精神なら怖くないとでも言うのだろうか。
オリンピックが、まさか「悠久の大義」で論じられる時代が再来するとは思いもかけなかった。オリンピックは大事だが、戦争とは全く次元の違う話ではないか。命がけになってはいけないのだ。人生をかけて努力する人がいても、それは当然だが、安全第一はすべてに優先する。
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